開幕3戦を終えて名古屋グランパスは3得点を挙げたが、その中にいまだ背番号11のゴールはない。決定機におけるスタンドの盛り上がり方を見るに、佐藤寿人のゴールを待ち望む観客、サポーターの何と多いことか。永井龍は「シーズンの1点目を決めるのが、どのFWにとっても難しい」と語ったが、開幕戦で3つの決定機のうち一つバーに当て、2戦目でもゴール前の混戦から巧みにシュートを打つもカバーに入っていたDFに阻まれた佐藤は、移籍後初得点の“産みの苦しみ”に悩んでいるといった状態なのかもしれない。
しかし、トレーニングを見ている限りでは佐藤の状態はすこぶる良い。それはプレー中の身体の使い方を見ていても感じる部分だ。以前から感じていたことなのだが、佐藤はどんな態勢でも普通のプレーができる特徴がある。余裕のある時に良いプレーをするのは当然のことで、しかし試合では相手とのコンタクトやパスのズレで態勢が崩れることなど日常茶飯事だ。そこでどんな時でも良い体勢を保てるように身体をコントロールするのも対策の一つだが、広島時代の佐藤を見ていて思ったのは、崩れた態勢でもまともなパスやシュートを蹴られるようにしているのでは、ということだった。
以前から気になっていたことが、そういった仮説が直接聞けるようになった現状は何ともありがたいこと。個人的な興味ですが、と前置きしたうえで、本人に聞いてみた。
「やっぱり自分の身体なので、思い通りに動かす、操れるというのがベストです。それを意識してずっとトレーニングしてきています。7年くらい前から体幹トレーニングなどを始めて、そういう部分では、良い時はもちろん良いプレーができますし、バランスを崩したり、難しい状況でも自分の思い通りに身体を使えてシュートを打てているなとは感じています。それはトレーニングを継続していないとできない部分なんですけどね」
期待通りの答えに内心ガッツポーズ。しかしすぐさま思ったのが、だからこそいわゆる“スーパーゴール”が生まれるのかという新たな仮説だった。佐藤寿人といえば裏への抜け出しとワンタッチゴールがいわば代名詞だが、もう一つの大きな特徴といえば通常ではありえない状況から叩き込んで見せるゴールである。2014年にはシーズン初得点がFIFA最優秀ゴール候補にも選ばれるなど、世界もその質を認める彼のゴールはひとえに身体コントロールの賜物のように思えた。
「だからスーパーゴールは昔は少なかったんですよ。ここ最近のことなんです。やっぱりスムーズに動作に移れないといけないので。(FIFA最優秀ゴール候補になった)アレなんかにしても、シュートを打つ時に『狙ったの?』って言われるゴールだと思うんですけど、狙ってなかったらあんな速く打てないよね、って答えるんです(笑)。自分の身体なので、うまく自分で動かせなきゃいけない」
これまた同意。その勢いで佐藤は得点する秘訣をもう一つ教えてくれた。誰にでも実行できることだが、なかなかできることではない。そしてこれこそがまさに点取り屋、とため息をついた部分でもあった。
「それに、ゴールの位置を背中で感じるというのがすごく大事だと思います。あとは景色ですね。景色で自分の立っている場所がある程度わかるじゃないですか。だからホームスタジアムというのはすごくやりやすいですよね。景色でいま自分がどのあたりにいて、どの角度で、だったらGKはだいたいどの位置にいて、というのがわかるので」
ゴールへの意欲、戦術眼、シュートの技術。ここまではFWならば誰でも持っているものだ。そこに佐藤は身体コントロールとGPSばりの位置感覚をスタジアムの景色から分析し、まさしくゴールへの最短距離を算出していたということになる。知れば知るほど、恐るべきストライカーである。
しかしこれで安心できるというものだ。パロマ瑞穂の景色と、豊田スタジアムの風景、その両方はスケジュール上で最短の2節で知ることができた。もちろんすべてを把握したとは言えないかもしれないが、次のホームゲームには“背中で感じる”情報も増えているに違いない。
どんな試合でもゴールを決めてくれれば嬉しいことには変わりないが、やはり我々が見たいのは、ホームスタジアムの歓喜を呼び起こす一撃だ。どんな形でもそれは素晴らしいが、スーパーゴールならなおさらに、と思うのは贅沢だろうか。佐藤はそうした声に応え続けてきた男だけに、やっぱり期待してしまうのである。
【今井雄一朗(赤鯱新報)】いまい ゆういちろう。1979年生まれ。2002年に「Bi-Weeklyぴあ中部版」スポーツ担当として記者生活をスタート。同年には名古屋グランパスのサポーターズマガジン「月刊グラン」でもインタビュー連載を始め、取材の基点を名古屋の取材に定める。以降、「ぴあ」ではスポーツ全般を取材し、ライターとしては名古屋を追いかける毎日。09年からJリーグ公認ファンサイト「J’s GOAL」の名古屋担当ライターに。12年、13年の名古屋オフィシャルイヤーブックの制作も担当。