『エルヴィス、我が心の歌』
提供:パイオニア映画シネマデスク
文=皆川ちか
“インパーソネーター”という職業がある。
日本ではまだ馴染みのない言葉だけれど、海外、特にアメリカではエンタテインメントの1ジャンルとして定着して久しい。対象となる歌手やコメディアン、俳優になりきって芸をする人々だ。たとえば日本では、マイコーりょうがマイケル・ジャクソンのインパーソネーターとして挙げられる。
インパーソネーターと聞いて“ものまねタレント”を連想する方もいるかもしれないが、“笑い”に着地するものまねとは異なり、インパーソネーターは、その人物の外見はもちろん、特徴や個性、雰囲気や存在感に至るまでを完コピして表現するので一種のパフォーマンスアーティストに近いかもしれない。そしてマイケル・ジャクソン然り、マリリン・モンローにジョン・レノン然り。強烈なスター性を持つ人物であればあるほど、多くのインパーソネーターを生みだす。彼(彼女)のようになりたい。彼(彼女)のように生きたい。憧れの対象と自分を同一化することを職業とした人々、それがインパーソネーターだ。
世界で一番インパーソネーターがいるアーティストは、エルヴィス・プレスリーだという。「キング・オブ・ロックンロール」の称号を持ち、アメリカン・アイドルの象徴とも言えるエルヴィス。華々しい栄光に包まれながらも、42歳の若さで急死し、現在もなお世界中に熱狂的なファンがいる。
映画『エルヴィス、我が心の歌』は、エルヴィス・プレスリーの生き様に取り憑かれた男の物語だ。主人公カルロスは、エルヴィスのインパーソネーターを副業としながら、職業意識を超えてのめり込んでいってしまう。服装、愛車、食事習慣、さらには自分の娘にまでエルヴィスの娘と同じ名前をつけ、昼は工場で働きながら、夜はステージに立つ日々を過ごす。舞台を降りても24時間エルヴィスになりきっている彼は、周囲から「キングそっくり!」と絶賛される一方で、妻からは「もうついていけない」と三下り半を突き付けられ、娘を連れて去られてしまう。エルヴィスとして生きる夢と、父として夫として家庭を守らなければならない現実の狭間で彼は悩む。
そもそもインパーソネーターは、存在自体がアイロニカルだ。カルロスのように没頭すればするほど本来の自分が消えていく。自分の芸でありながら、自分の芸ではない矛盾。インパーソネーターは常に、アイデンティティ(自己同一性)のゆらぎにさらされている。
夢を追いかけるあまり、エルヴィスとして生きることはできても、自分として生きることはできない。そんな、どうにも不器用なカルロスだけれど、ある種の矜持が漂っている。自分はオリジン(原型)ではない。あくまでもインパーソネーター(模倣)でしかない。それでも劇中で、エルヴィスが憑依したかのような圧倒的なパフォーマンス、見事な歌声をみせてくれる。特に終盤、ある覚悟を胸に秘めてステージで熱唱するエルヴィスの名曲「アンチェインド・メロディ」は、ホンモノ/ニセモノ、原型/模倣の境界線を突き破って、シンプルでいて力強い感動に充ちている。
他者として生きることで自分を表す――。インパーソネーターという表現者ならではの、悲哀と業が鮮やかに、そして切実に迫ってくる。
『エルヴィス、我が心の歌』
2016年5月28日(土)より渋谷ユーロスペースほかにて全国順次公開!
配給:パイオニア映画シネマデスク